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tueda's diary


2014-07-05 tueda's diary

_ 柳原秀基

そろそろ終わりにしないと身が持たないので,これを書いて終わりにする.タイトルは「柳原秀基」だが,書くのは私自身の事なので,柳原秀基の事を知りたくて来られた方には申し訳ないが,期待している情報はここではきっと得られないことを予めお伝えしておく.

出会い

柳原秀基を初めて知ったのは,2003年4月,大阪市立大学大学院創造都市研究科に1期生として入院した時だ.既にNT-committee2の幹事として,また「システム管理者の眠れない夜」の著者として,そしてMicrosoft MVPとして,同期の中でも飛び抜けた知名度と人望,そしてまぶしいばかりの反射率を誇っている人だった.

とはいえ正直,私は柳原秀基という名前を全然知らなかった.1999年の設立時より関西*BSDユーザ会の運営委員の末席を汚し,時々はLinuxなコミュニティにも顔を出していた私なのだが,Windows(Microsoft製品)を使うひとたちのユーザグループがある事すら,想像だにしなかった.今にして思えば不勉強にもほどがあると,汗顔の至りである.

確か矢吹幸治さんだったと思うが,1期生の顔ぶれを見回し

「すげー,柳原秀基までおる」

とつぶやいたとき,それを聞いた私は思わず

「誰,それ?」

と返事をして周りを凍り付かせてしまったのは良い思い出だ.

幹事体質

創造都市研究科は社会人を対象とした大学院である.平日の昼は仕事をし,夜と,土曜日に受講,研究をするのが基本的なスタイルである.が,私が入った都市情報学専攻では,週に1日,平日の昼に杉本キャンパスでの講義があった.1期生には,情報系のあらゆる分野のコミュニティで活動をしている人材が揃っていた.どこのコミュニティでも集まると宴会が始まるのは同じである.当然,週に1度は杉本町で宴会が行われる事になった.

宴会を仕切るのは必ず,柳原秀基である.いつの間にかお店と交渉のしやすい席を陣取り,料理の手配も決めてしまう.毎週の事でもあり,また社会人ではない学生さんもいたりするので,金額がリーゾナブルになるようにも,心を砕いていた.私も宴会の取り仕切り,司会進行などはそれなりの数をこなしているが,あれほど自然に「幹事席」を確保しいつの間にか仕切りを終わらせて,後はゆっくり吞むという芸当はとても真似が出来なかった.

2003年秋のKOFの宴会の際には,jus幹事の高橋昭子さんと壮絶な幹事席争奪バトル(正に「場取る」だった)を演じていたのが思い出深い.このときに「幹事体質」という言葉を初めて知った.

プロップ・ステーション

2003年の秋に,六甲アイランドに本拠を構えるプロップ・ステーションネットワーク管理者養成講座をするので手伝わないかと,柳原秀基から打診を受けた.プロップ・ステーションはICTを利用してチャレンジド(障害を持つ方々の事を,プロップ・ステーションではこう呼ぶ)が仕事をして自立できるように,サポートする活動を行っている.

ネットワーク管理者は広範な知識と経験が必要な職業ではあるが,確かに,身体的な障害があっても大きな影響はない職業である.サーバをラックにマウントするとか,肉体労働的な作業がある事はあるが,管理者は何人かでやるものなので,そこはカバーしあえば良い.チャレンジドの皆さんが目指す職業としてはうってつけである.プロップ・ステーションの理念と活動にも賛同できるので,お手伝いをさせて頂く事にした.

この講座は全10回で1ターン,年間2ターン開講されていた.ネットワークの基礎部分は柳原秀基が担当し,私はPC-UNIX入門と称して,Cygwinの導入,操作,Webサーバの構築を担当した.当時プロップ・ステーションには講習用の端末がWindowsしかなかったので,そこにCygwinを導入して,UNIXの操作とApache Webサーバの構築を行ったのである.

私の担当は当初3回であったが,初回ターンが終了した時に柳原秀基が

「上田さん,PC-UNIX入門は大変好評でしたよ.次のターンからは4回担当してもらって内容をもう少し増やしましょうか」

と言うのである.今にして思えば上手くおだてられただけのような気がするが,単純な私は喜んで

「ネットワーク管理者ならシェルスクリプトくらい書けないとですよね!」

とかなんとか言って,次のターンからはシェルスクリプトを使ったプログラミング入門を追加したのだった.

講座は2005年まで続き,PC-UNIX入門講習資料は回を重ねる毎に改訂されていった.このときの資料は今でも折に触れて再利用している.柳原秀基のおかげで築くことのできた,私の大切な財産のひとつだ.

ちなみにこの講座,土曜日の13時〜17時という長丁場で行われていた.チャレンジドの皆さんの体力を考慮し,1時間毎に10分程度の休憩を挟んではいたが,4時間の講習を担当すると講師もヘロヘロになる.今なら当然,体力回復のために吞みに行こうという事になるのだが,意外な事に一度も「じゃあ飲みに行きましょうか!」という話しにはならなかったなあ.

セイ・テクノロジーズ

2005年春,柳原秀基と私は大阪市立大学大学院創造都市研究科の博士後期課程に1期生として進学した.私は相も変わらず受託開発と研究,そして音楽活動の二足どころか三足のわらじ状態で,どれもこれも中途半端になり皆さんにご迷惑をかけていたが,その間にも彼は大学の非常勤講師を務めつつ,東京・市ヶ谷にあるセイ・テクノロジーズ株式会社のチーフ・アーキテクトに就任した.

2007年の正月早々であったかと思う.またもや柳原秀基に声をかけられた.

「上田さん,C++できる?」

もちろん,C++でプログラムを書くことくらいはできる.が,このとき打診されたのはWindows上で動くMFCアプリケーションで,しかもBoost, ATL, WTL, STL を駆使した最新のC++アプリケーションだ.私が最後にC++でWindowsアプリケーションを書いたのはこの時点から数えて10年以上も昔,しかもその頃にはまだSTLすら標準化されていなかった.だがそんな事はおくびにも出さず,

「ええ,もちろん!」

と答えて,その足で書店に参考書籍を買いに走ったことは内緒だ.2〜3日閉じ籠もって勉強をしたが,このときの蓄積も現在に至るまで私の大きな財産となっている.

セイ・テクノロジーズ時代には週に2日ほど東京に通っていたらしいが,市ヶ谷にも行きつけの居酒屋がちゃんとあって,カリー春雨が置いてあったことと,ランチには必ず駅前のステーキ屋で200gのステーキを食べていたことに瞠目したのを覚えている.私はたまにしか行かなかったから200gのステーキはとても楽しみにしていたが,柳原秀基は毎週だ.ああ見えて,実は肉食なのである.

エス・アール・アイ

2008年の夏,柳原秀基の東京への参勤交代は終わって今度は和歌山に通うことになったらしい.しかも白浜である.株式会社エスアールアイの非常勤顧問として,和歌山での採用・新規拠点の起ち上げなどを担当しているという事だった.

2012年頃より,弊社でもiOS/Androidアプリの開発を手がけることになった.殆どサーバサイドアプリしかやっていないので,またいちから勉強である.昔と違って最近は大抵の事にはユーザコミュニティがあり,勉強会があったりする.が,週に1度とか月に1度のコミュニティレベルの勉強会ではとても仕事には間に合わない.行くと楽しいので趣味としては勉強会に参加するが,仕事でやることに関しては基本的に勉強会には参加せずに自分で勉強をすることにしている.

ところが.当時サンプルで作っていたPhoneGapアプリで,PhoneGapのバージョンを上げると動かない事に悩んでいたときに,柳原秀基から驚くべきお知らせがあった.なんと白浜で合宿形式のスマートフォン勉強会をすると言うのである.良く聞くと柳原秀基の主宰ではなく,例によって幹事体質を発揮し,エス・アール・アイを巻き込んで,関西のスマートフォンアプリ開発の先駆者達が集まる「関西スマートフォン勉強会」を白浜のエス・アール・アイ本社で行うというのである.

黙々と一晩中,自分で決めたテーマの開発を行い,翌日にその成果を発表するという勉強会である.これは効果が高い.しかも白浜である.私は迷わずに参加することにした.

PhoneGapアプリは基本,JavaScriptで書く.これがくせ者で,慣れていないととても難しい.ブラウザで動くJavaScriptの処理系は通常はシングルスレッドで,書法的にはイベントドリブン風(非同期風)に書いても実はコルーチンだったりして,処理の順番や排他制御については少し手を抜いても大丈夫だったりする(処理の途中で割り込まれる事はない).が,PhoneGapでネイティブコードと連携すると,ネイティブ部分は完全に非同期な動作をする.必要なところではちゃんと待ち合わせ処理を書かないと謎動作となって,デバグがとても難しくなる.

こういう問題を解決するには合宿形式の勉強会はぴったりだった.一晩掛けて問題を特定し,修正を行い,そして翌日の発表資料を作成した.柳原秀基のおかげで,50歳を目前にして新しい技術を習得したのである.

もちろん柳原秀基はコードを書かない.このときも,ひょうひょうと幹事体質を発揮し,我々プログラマのために何くれと無く世話を焼きながら酒を飲んでいた.

沖縄料理にしむら

話しは2003年に遡る.創造都市研究科の修士課程当時,私は都島区から杉本町まで自転車で通っていた.約1時間の距離である.10月のある日,大学の少し手前に沖縄料理ののれんがかかっている事に気がついた.確かここにはこんなものは無かったはず…後で調査に行かなければ,と考えながら大学にたどり着いた.その日の午後,柳原秀基から声をかけられた.

「上田さん,沖縄料理いきまっせ.もう,ボトル入れとくように言うてあるから.」

なんと,先を越されたのだ!昼のうちに既にソバを食べて,しかも夜に来るからそれまでに一升瓶を用意しておけと言っておいたらしい.まだ開店直後で,もともとボトルキープも四合瓶しか置かない積もりだったらしく,一升瓶はないと言われると

「そんなん隣で買うてきたらええがなっ」

と一喝したという.となりは「たんだ」という杉本町随一の酒の量販店である.確かに泡盛の品揃えも良い.しかしなんでそんな事まで知っているのだ…と思ったのは私だけではなかったはずだ.

それ以来実に10年,にしむらに通い続けた.にしむらには「ポーク玉子」というメニューはない.「ポークステーキ」と「アオサ入り玉子焼き」があるだけだ.

「ポークがあるんやろ?玉子焼きもあるんやろ?ほんなポーク玉子できるがなっ」

と一喝してメニューにはない「ポーク玉子」を作らせたのも柳原秀基だ.私がポーク玉子が大好きな事を知っていたので,きっと私の為にやってくれたことに違い無い. 一時期は,にしむらでは私は何も言わずに座るだけでポーク玉子が出てきた事もあったくらいだ.

2013年11月.柳原秀基とMasaru Yoshiokaさんの企画で「にしむら10周年記念旅行」と称したイベントが開催された.行き先は沖縄である.もちろん私も参加した.目的は那覇で「ジャッキー」というステーキ屋に行く事,そして石垣で泡盛の蔵を回る事である.やっぱり肉と泡盛なのである.さすがである.

私は京都で仕事があったので石垣には行かずに一足先に帰る予定であったが,帰る日の朝,那覇の公設市場でヤシガニを買って食べるというので,ついうっかり,飛行機を遅らせてしまった.夜光貝とセットで2万円と少しだったろうか.総勢7名でも十分な量で,大変美味しく楽しませてもらった.

訃報

2014年7月2日.けいはんなで仕事をしていると元エス・アール・アイ社員で能開大での柳原秀基の同僚でもある,田中淳司さんからfacebookでメッセージを頂いた.その後はもう,自分でも笑ってしまう位にうろたえた.親父が死んだ時もかなりうろたえたが,それ以上だったかもしれない.

7月2日.にしむらで泡盛を3杯.あびこの沖縄物語で2杯.さらに長居あたりで吞もうとして,気がついたら長居公園で寝落ちしていて驚いた.

7月3日.通夜の後,定休日のにしむらに乱入しようと中村亮太君が言うので,仕方なく泡盛を3杯.いや4杯か?その後天満橋で,坂下秀さんにお付き合い頂いてビールを2杯.さらにコンビニでビールを買って,会社で吞もうとしてそのまま気絶.気づいたら朝だった.

7月4日.告別式後.幹事がいないので式場前に20人ほどの烏合の衆が誕生.烏合状態のままグランフロントに移動してビールを3杯.やましたあつみさんが車を出してくれて,作見雄一さん,矢吹幸治さんと共にあびこの安喜で日本酒を2杯.その後,にしむらに移動して大宴会.泡盛を,さて,何杯吞んだだろうか.最後に都島駅前居酒屋でビールを1杯.

hide3,もう呑めません.勘弁して下さい…


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